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2008年8月25日 (月)

俊寛再び

824日 第6回亀治郎の会(国立劇場大劇場)
2
日続きの観劇、今日の席は前方だったにもかかわらず、半端に上手側だったのと、前の人の頭と頭の間からやっと舞台を覗き見るという感じで、首はコリコリ(まだ痛む)、コストパフォーマンスの悪さに今日だけの観劇だったらかなりつまらん思いをしただろうな、というところでした。
それでも「俊寛」はとてもよかった。こういう重い芝居を続けて見たら退屈するかもしれないぞと心配していたのだが、「俊寛」がこんなに面白いと思ったのは初めてかもしれない。一つには、昨日も書いたが、従来型と変えたためにわかりやすくなったことがある(昨日はその変化に気を取られ、芝居として楽しむまではいかなかったような気がする)。またもう一つには、康頼(亀鶴)、丹波少将(亀三郎)、千鳥(尾上右近)の心情がよく摑めたことがある。
これまでの「俊寛」では、私自身が俊寛だけの気持ちに焦点を当てがちで、他の人物を摑みきれていなかったようだ。今回は、1人俊寛の名前だけが赦免状に見当たらない、その時の康頼と丹波少将の表情が曇ると同時に必死になって一緒に名前を見つけたいという様子が伺えて、胸が熱くなった。またいよいよの別れの時の2+千鳥の心からの惜別の情も心打たれる。右近クンからは今時の女の子という感じを受けるのだが、少将を頼り、俊寛を実の父とも慕う純で優しい心根がよく現れていて、いちいちの仕草、表情に涙を誘われる。
そうそう、昨日の観劇記で、「さらば」で別れを告げるのではなく、と書いたが、搾り出すような「さらば」があって、その後に「未来で」と言うのであった。
俊寛は船が動き出したとたん、はっと我に返ったような表情を見せるが、このとき「俺は一体何をしたのだ。なぜあんなことをしたのだ」と思ったのではないだろうか。妻を殺され、都へ帰っても仕方がないという気にもなっただろう、それならいっそ自分は残り、哀れな千鳥を少将とともに都へ行かせてやろうと真剣に考えもしただろう。だから瀬尾殺害という、罪人としては取り返しのつかないことをやってのけた。しかし現実に船が去ろうとしている今、一瞬後悔の念に駆られたのではないか。千鳥云々よりも、1人置いていかれることの恐怖に駆られたのではないか。
それから、昨日は、手を振り船を追いかける動作が大げさでないと書いたが、これは舞台をばたばたと賑々しく(変な表現だけど)走って追いかけるというのではない、という意味であって、亀俊寛もやはりそれなりに手を振っているのであった。そして本舞台から花道へかかるあたりで一度「お~い」と叫んだあと手を耳にかざし、船からの声を聞き取ろうとする。これが俊寛の孤独感を増した。岩が奥からぐっとまわって出てくると、俊寛の粗末な住まいがセリ下がって行くことはもう書いたが、これれによって海の大きさが強調され、鬼界ケ島の孤島ぶりが印象づけられる。

昨日あまり触れなかった瀬尾と丹左衛門。門之助さんの丹左衛門は端正で人情味がにじみ出ている。ただ、瀬尾と一緒に下船したのはどうかなあという気もする。俊寛に別の赦免状があるよ、と教えるのに、俊寛が嘆いている間その場でそれを眺めているのは不自然な気もしないではないし、せっかくの門之助さんのよさが生かされず、瀬尾より存在感が薄い気がしたのがもったいないなあと思った。俊寛に別れるとき扇を少将に持たせたのは初めて見た。
瀬尾は私がこれまで見た5回の「俊寛」中3回は段四郎さん(他は勘三郎vs彌十郎、右近vs 猿弥)で、もちろんその前にも何回も演じているからすっかり手に入った役であろう。それでもこれまでで一番のびのびと大きく演じているように見えた。憎々しさと融通のきかなさ(役人としての職務に忠実という見方も…)、息子相手に自分の持ち味を十分出し切ったという感じだろうか。私としては一番納得のいく迫力と存在感だった。
それにしても「俊寛」は吉右衛門さんで完結したはずなのに、6回目にしてこんな俊寛を見せられたら、まだまだ完結できないではないか。

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