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2009年7月19日 (日)

50年前の「天守物語」

「天守物語」を思い出していたら、突然、これって子供の時に見たことがあるかも…と思った。いや、本当に見たのか、あるいは父の持っている筋書きを見たから芝居も見たつもりになっているのか、そんな程度の記憶なんだけど、歌右衛門さんの顔が妙に鮮やかに甦ってきた。
歌右衛門の富姫に対し図書之助は守田勘弥!! まだ玉三郎さんが勘弥さんの養子になる前の上演だが、玉様もきっとこの舞台を見ていたに違いない。ご自分が演じるときに、勘弥さんの図書は玉様の意識のどこかに残っているのだろうか。
ほかの配役を見ると、亀姫は四代目時蔵(当代時蔵さんのお父さん。モノクロだけど写真を見ると、めちゃきれい)、桃六が猿之助(猿翁さんでしょうね)、薄は松蔦。なんと、嬉しいことに富姫の侍女・葛に歌江さんの名前がある!!
今に伝わる名前の役者さんが多々いる中で、春猿、猿三郎、喜猿という名が一際目を引いた。先代のこの方々はどんな役者さんだったのだろう。今となっては知るよすがもないが、春猿さんはやはり女方のようである。
さて、今の「天守物語」では駕籠が空を飛ぶのに映像を使ったりもしているが、当時大変な苦労があったであろうことは想像に難くない。舞台美術担当の織田音也という方の文を読むと、閉まったままの厚い扉への自由自在の出入りが難しく、前回は扉を開けたてしたが化物(当時はこう表現している)らしくないので、「スーッと吸いこまれる様に」したい。今回は富姫の帰城を効果的に見せられるだろう、というようなことが書いてある。屋根から入る亀姫は、女乗物を宙吊りにして格式ばって「お姫様のおいりーツ」という感じにしたい、ともあった。しかし、織田氏が最後に書いておられるように、「要は仕掛芝居にしなくても例えばまともに歩いて出て来ても空飛ぶ様に見えたり、物かげから出るのがわかっても、神通力で現れた様な感じが出ればそれが本筋なのではないかとも思います」なのだと、私も思う。まさに<らしさ>の世界であろう。
当時の「天守物語」の映像が残っていたら見たいものである。年がわかるけれど開き直って、はいこれ、昭和3511月大歌舞伎の演目であります

おまけ:中村吉右衛門劇団・市川猿之助一座・中村歌右衛門参加の芸術祭十一月大歌舞伎(当時は11月が芸術祭大歌舞伎だったのね)は昼の部が「浅間大名」「須磨の写絵」「一本刀土俵入」「供奴」、夜の部が「天守物語」「紅葉狩」「五大力恋緘」(「盟三五大切」はこれを書き換えたもの)。今の筋書きと違って、1人1人の役者さんの顔写真もないし、舞台写真もモノクロの不鮮明なものであるが、先代の幸四郎さんと勘三郎さんが当代にあまりにそっくりでビックリする。

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歌舞伎ミーハー日記」カテゴリの記事

コメント

Fujisan 様
 昭和35年の筋書(ところで東京では筋書なのに、関西では番付と言うんですよね。)とは、よく保存されていましたね。お父上は、大の歌舞伎通なのですか?懐かしい名前がでてきていましたが、薄役の松ちょうは先代の門之助(当代のご父君)ですかね。
 それはさておき、勘弥は、晩年の数年の舞台に、なんとか間に合い、いくつかの演目をみました。江戸前の二枚目が得意の役者(刑場の権八がよかったですよ)で独特の味がありました。今の役者さんで似ている人はいませんね。(梅玉がほんの少し似ているかもしれませんが。)役全体、強力な表現力で感心させるというタイプではなく、出てきた瞬間の印象、ほんのちょっととした、仕草、せりふ回しで観客を喜ばせる術を持った役者でした。捨てセリフ、しぐさで、芝居をさらうタイプでもありました。印象に残っている役の一つですが、お浜御殿の綱豊卿で、助右衛門とのやりとりの最後、「そちゃ、最前、憎い事を申した」(記憶がはっきりしないのですが、今の仁左衛門のセリフとは違っていたような気がします。)というセリフが抜群にうまく、満場を沸かせたりしました。
最後、病床に見舞った中村屋に「玉三郎のことを宜しくお願いします」と懇願したのは有名な話です。
 ところで、Fujisan様は今月まだまだご覧になられるみたいで、暑い中、ご苦労様です。私は、あと立川で吉右衛門の沼津を見ます。平日の夜でもあり、当初予定していなかったのですが、Fujisan様のレポを拝見、チケットピアで購入しました(Fujisanさんは松竹の売上げに貢献しているのです!)。仕事の都合で最初から見られるか分かりませんが、楽しみです。来月は、見ものが一杯ですが、「豊志賀の死」を歌舞伎座と国立演芸場中席の落語とを比較してみるのが興味津々です。(桂歌丸は先代の権十郎にセリフ術を教わったこともあるせいか、歌舞伎風のエロキューションがみごとですよ。)

投稿: レオン・パパ | 2009年7月20日 (月) 18時36分

レオン・パパ様
関西で番付というのは知りませんでした。父は歌舞伎好きではありますけれど、特別に通というわけではありません。筋書きもそんなにたくさん残っているわけではないので、年に何回か見ていた程度だと思います。
松蔦さんは、多分先代門之助でしょう。私はむしろ松蔦の名のほうが記憶にあります。
勘弥さんの役者ぶりについてのレオン・パパ様のご説明、よくわかります。と言っても、私はほとんど記憶がないのですが、色々な写真から受ける印象というか、写真から想像する姿というか、そういうものがなんとなくご説明に重なります。
玉三郎さんのことはさぞご心配だったでしょうが、ここまで大きな役者さんになるとは勘弥さんも想像なさったかしら。今の姿をご覧になったらどんなに喜ばれることか。

吉右衛門さんの巡業チケットをお買い求めいただいて恐縮でございます(別に松竹の回し者ではないのですが)。ご覧になったらご感想をお聞かせくださいませ。

国立演芸場でも「豊志賀の死」がかかるとは不覚にも気づきませんでした。歌丸さんの名人芸をぜひ聞いてみたいところですが、来月も一杯一杯で…。累ケ淵は歌舞伎で見るのは初めてです。

投稿: SwingingFujisan | 2009年7月20日 (月) 21時16分

 そうですよ、東京では筋書だし、関西では番付、そして博多座では「プログラム」と言わないと買えません(笑)。
 さて、<らしさ>の世界とは、舞台美術のプロはさすがですね。鏡花による大正の戯曲とは違うかもしれないけど、元々演技とは<らしさ>で、歌舞伎は<らしさ>しかないし。
 ですが、天井から下りてくる女儀御輿とか、鼓の朱の緒が結び付けられた欄干のある階段を降りてくる天守夫人とか、そういう絵も見てみたいと、正直思います。写真で見る花柳章太郎の富姫(1951年新橋)は、妖しいですよ。
 <らしさ>を持ってない役者だと、スッポンから出入りしても第五層にならないし、会津から五百里を飛んできたようにも見えなくて。「夜叉が池」では、池も水も、何もかもが見えたんですけどねぇ。逆に、主演者はそこらあたりの空間感覚を演者に迫ったのかもしれませんが。

投稿: 雪姫 | 2009年7月21日 (火) 23時01分

雪姫様
あらら、それぞれの地でそんなに呼び方が違うとは(^^) 「番付」と聞くとついつい相撲番付のようなものをイメージしてしまい、ピンときませんでしたが、歌舞伎の筋書を初めて買ったときには「筋書」という言葉も言い慣れない気がしたものです。「プログラム」が浸透しちゃっていましたから。今は逆に何でも「筋書」と言いそうになります。
私も最近になってやっと<らしさ>というものを意識するようになりました。つまり、その役のいい悪いを<らしさ>と結びつけて考えるようになったわけです。舞台美術がどんなによくても、役者さんに<らしさ>がないと、もうその世界が感じられなくなってしまいますもの。歌舞伎の役者さんは、1日のうちに複数の違った役を演じますから、それぞれの<らしさ>を出すのが大変だろうなあと思います。だからニンなのか…。
私も、当時の舞台を是非見たいものだと思っています。現在のような技術が使えないからこその工夫が活きるのでしょうね。筋書の上演記録を見ますと、花柳章太郎の富姫が「天守物語」の初演なんですね。どこかに映像が残っていたら、歌舞伎チャンネルででもやってくれないかなあ。

投稿: SwingingFujisan | 2009年7月22日 (水) 01時25分

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