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2010年9月27日 (月)

九月大歌舞伎夜の部・1:つい熱く語ってしまう「俊寛」

926日 秀山祭九月大歌舞伎千穐楽夜の部(新橋演舞場)
朝から首の血行が悪く、脳に酸素があんまりうまくいってくれず、な~んか眠い1日だった。
「猩々」
というわけで、半分くらい寝ていたかも。芝雀さんがきれい(芝雀さんのブログ見てやっぱりあのオジサンがどうしてこんなに変身するのかナゾだ)、だとか、松緑さんが童子に見えるとか、梅玉さんの赤いロンゲは珍しいとか、つまらぬことを思いながら、あ~もっとちゃんと見たかったと体調管理を反省。
「俊寛」
いろんな俊寛の中で吉右衛門さんの俊寛が私には一番しっくりくるかも、と思った。足腰が弱っている様子も、千鳥を目を細めて見る表情も、若い2人に向ける慈愛も、自分の名前がないことに対する凄まじい絶望感も、すべてが演技でないみたいに吉右衛門さんの身体の中から出てくる。
それに対して福助さんの千鳥は、私にはやっぱりダメ。出の笑いにしても、その後の笑顔にしても、可愛らしく見せようとしているんだろうが、笑顔がバカみたいに見える(ちょっと手厳しいかな。でも、私には本当にそう見えちゃったんだもの。福助さんファンの方、ごめんなさいね)。表情や仕草のオーバーさはコメディーじゃないんだから、と言いたくなる。瀬尾と戦うために立ち上がろうとした俊寛に押しのけられてごろりと勢いよく1回転した時にはビックリした(みんな、すっころがるんだっけ? どうも福助さんに疑心暗鬼になっている、私)。ただ、後半はオーバーさが引っ込み、よかったんじゃないかしら。
段四郎さんは、脂が乗ってるなあと思った。同じ段四郎さんのこれまでの瀬尾で一番よかったような気がする(まあ、前のことは忘れてしまって、その時見るのが一番、ってだけかもしれないけれど)。時々瀬尾に同情したくなることもあるのに――憎らしいことは憎らしいけれど、役人としての職務に一応忠実で、それが流刑の地で誰も味方してくれずに命を落とすなんて――、今回は堂々たる悪役ぶりで同情心はほとんど湧かなかった。理屈勝ちに見る芝居ならともかく、感情に訴える芝居のときは、悪役ならそれくらいでないと。

仁左様の丹左衛門は実に立派だった。4人乗せてやれよという慈悲心を瀬尾の理屈であっさり翻すのにも潔さがあって、納得できる。赦免状を取り出したとき、「下」と表書きされた紙(名前が出てこない)を刀に引っ掛けるのだが、それが落ちてしまった。丹左衛門が俊寛に赦免状を向けてしっかりと読ませた後、お供の家来の1人がすすっと丹左衛門に近づきさりげなく拾い上げて渡していたのに感心した。丹左衛門が自分で拾うのかなと思っていたのだ。この家来の行動は実に自然に見えて、なおかつタイミングもばっちりよかったのではないだろうか(丹左衛門が赦免状をその紙の中に再びしまおうとするタイミングだった)。船が出る時、俊寛に別れを告げる決めの姿勢を取る仁左様、心で泣いているようであった。
毎度言うようだが、「俊寛」の舞台は実に優れている。俊寛の住む小屋と俊寛が船を見送る岩のまわりの砂浜だけを残し、あとは全部波布に覆われる。花道から順に少しずつ砂浜が海に変ると、そのたびに寂寞感、孤独感、絶望感が強くなっていく。これは上からしかわからない「俊寛」の醍醐味である。
吉右衛門さんの最後の表情は、なぜか私には諦念には見えず、静かな執着心、苦悩を感じた。
あ~、「俊寛」って上演が決まるたびに「又かよ~wobbly」ってウンザリするのに、見ると熱く語りたくなる、しかも「案外『俊寛』好きかも」なんて思うのはなぜ?smile


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