3月7日 「空ヲ刻ム者」(新橋演舞場)
このタイトルを見た時、私は「くうをきざむもの」と読んだ。そうしたら「くう」ではなくて「そら」だったのだけど、でも芝居を見ていたら、「くう」でいいのだとわかった。
まず口上があった(内容は後ほど)。猿之助さんから上手へ福士・弘太郎・春猿・笑三郎・門之助さんへ、そして下手の浅野和之さんへまわるのだが、ちょっとトラブルがあって(シナリオにあるトラブル)浅野さんは口上を述べず、猿弥・寿猿・笑也・右近・蔵之介から猿之助さんへと戻る。最後、全員の台がす~っと後ろへ引っこむも、浅野さんの台だけ取り残され、そのまま大道具さんの舞台設定が始まり、浅野さんは邪魔だと邪険にされながら芝居が始まっていく。
仏教、仏像をテーマにしたこの芝居は猿之助さんならではのものであり、宗教観という非常に観念的なで、しかもストレートなメッセージが前面に出ており、歌舞伎としては馴染のない内容であると思うが、これだけのレベルの芝居にしたのは前川さんの脚本、そして仏教に造詣の深い猿之助さんだからこそだろう。しかも、他の役者さんたちもみんな人物を自分のものにしていて、見ている方は人物像をしっかり捉えられるし、言いたいことも自分なりに消化できた。
1幕目はやや観念に走り過ぎていたのと、根本にある「民の困窮」状態に切実感があまりなく、退屈しかけた(でも、全然眠くならなかった)。むしろ十和(猿之助)が村にいられなくなった経緯のほうが印象的で、その後「民のため」は宙に浮くのではないかと危惧したが、芝居の芯にブレがないためにそれは杞憂に終わった。また、十和の疑問は私自身も時々考えることであり、よくわかった。そして私はこの芝居の間、ず~っと3・11を考えていた。先日NHKの番組で見た気仙沼聖書が頭に残っていたせいもあるだろうが、「受け入れる」ことの意味に感銘を受けるものがあったからかも。
2幕目からは歌舞伎の要素がふんだんに取り入れられ、3幕目では蔵之介さんと猿之助さんのダブル宙乗り(同時にだけどそれぞれ別に吊られ、最後は2人で手をつないで宙乗り小屋へ)に場内は興奮の坩堝と化す。立ち回りでは弘太郎さんと龍美麗さん(かな?)のダブル戸板倒し、カメちゃんの逆戸板倒し(?)というか戸板上がりというかの大技に歓声が上がった。また、十和が一馬(佐々木蔵之介)のために彫った仏像が納まった厨子の扉を開けると中から勢いよく紙ふぶきが吹き出し、思わず息を呑み、次の瞬間には「わ~っ」と声を出さずにいられない。さらにはこうした場面に限らず、時々「きゃぁっ」というアイドルに対するような声が聞こえてきて、おお歌舞伎の観客も変わったものだなあ、猿之助さんは又新しい客層を開拓したのかもしれないなあと思った。
十和の抱えている疑問は私も時々考えることであり、よくわかる。それが若者らしい頑なさで過激な行動に走らせるのだが、あまりの頑なさにこちらがイラつくことさえあった。しかし、それは十和が本当の仏に気づくためには必要なものであったのだろう。十和の頑なさが強ければ強いほど、喜びも強くなるのだ。1幕目がやや退屈であった理由の1つは、仏像についての問題がこの物語のきっかけとなりながら、仏像がほとんど出てこなかったことが観念的すぎたのではないかと思っていたが、実体を見せないことが狙いだったのかもしれない。そして最後に十和がたどり着いたものは、八百万の神に通じるものがあると思った。それにしても、時々ヤマトタケルのカメちゃんに重なる部分もあったりしたのは、こちらの見る目のせいか、それともやはりどこかに土台としてそれがあったのだろうか。笑三郎さん(母・菖蒲)はヤマトタケルの叔母・倭姫に重なるし。死を受け入れ、静かに十和を見守る姿は慈愛に溢れていたが、1回だけおっかない声を出したのでビックリした。
十和が九龍(右近)と出会い、導かれていく過程では、三代目が倒れた後澤瀉屋を引っ張ってきた右近さんと新しい澤瀉屋の屋台骨となった四代目との実際の姿に重なって胸に迫るものがあり、大変感動的であった。全体的に澤瀉屋への四代目の思いが感じられた芝居であり、それだけに月乃助さんの姿がないのはとても残念で寂しいのであった。なお九龍が不動明王となって復活したのは澤瀉屋の主筋たる成田屋へのオマージュではないかと思ったが、穿ち過ぎであろうか。
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