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2015年1月 2日 (金)

パラレリズムとリズムの画家:ホドラー展

12日 フェルディナント・ホドラー展(国立西洋美術館)
150102emotion 年内に行くつもりが時間が取れず、思い立った時に行かないと12日までの会期があっと言う間に終わってしまうから、年明け始動をホドラー展にした(歌舞伎はまだまだ先)。
昨年暮れに見たチューリッヒ美術館展でも何点か展示されていたが、105点、一気に展示されるとやはり迫力が違う。ホドラーの心、息吹が感じられてとてもよかった。すいていたので11枚をじっくり見られたのもありがたかった。105点でも全然疲れなかったし。以下、感じたことのメモに解説の助けを得て。
Part1
 光のほうへ――初期の風景画
初期の風景画を私は案外好きだと思った。「スペインの風景」にはPart1のタイトルにもなっている「光」を強く感じる。イタリア、スペイン…南の明るい日差しが画家の心をとらえた例はこれまでにも何回も見てきたが、ホドラーも光に感銘を受けたのだろう。「小さなプラタナス」は色使いが好き。ホドラーは「リズム」と「パラレリズム(平行主義)」で知られるそうだが、「インターラーケンの朝」(1875年)にはすでにその兆候がみられ、「マロニエの木々」(1889年)は道に立つ木と湖面に映るその影がパラレリズムを予告しているようであった。
Part2
 暗鬱な政界末?――象徴主義者の自覚
ホドラーは早くして両親と兄弟を亡くしたそうで、幼い時から「死」を意識してきたようである。「死した農民」(1876年)は偶然農民の事故死に遭遇し、解剖学的な観点ではなく純粋に芸術的興味に基づいて描かれたそうだが、静かに横たえられた遺体を穏やかな筆致で描いているにもかかわらず、その痩せたあばら骨に突然死の生々しさを感じた。「思索する労働者」(1884年)は、労働者を描いた絵画が好きな私には嬉しい作品だ。ロダンの「考える人」を思わせる。「アハシュエロス(永遠のユダヤ人)」(1886年)。永遠のユダヤ人とはいわゆる「さまよえるユダヤ人」のことらしく、この絵では苦痛に苛まれる姿ではなくやはり思索している姿として描かれているそうだ。疲れ切った年老いたユダヤ人が永遠に歩き続ける姿が強烈に目に飛び込んできた。歩き続ける、そこにすでにホドラーの「リズム」が感じられるとのことだ。「読書する老人」(1885年)にも何か心にしみるものを感じた。
Part3
 リズムの絵画へ――踊る身体、動く感情
「オイリュトミー」(1895年)。オイリュトミーとはギリシア語で「良きリズム」という意味。死への道を歩んでいる白い長衣をまとった5人の男性を横から描いている。「オイリュトミー」という画題は恐らくホドラーの手法として5人を良きリズムで配置したという意味だろうと思うが、この絵から「良きリズム」を直感的に感じる力は私にはなかった。ロダン「カレーの市民」を思わせる5人は絶望、悲しみ、諦めなどの感情を全身で表していて、何かじんとくるものがあった。
「感情Ⅲ」(1905年)(写真)は「オイリュトミー」と対比するような作品で、4人の女性がやはり並んで歩いている。オイリュトミーは左へ、感情は右へ歩いている。女性たちの顔は向こうを向いていてほとんど見えない。体の動き、手の動きがそれぞれ異なる。彼女たちの周囲にはポピーの花が咲き乱れいてる。「昼Ⅲ」(1900年)、「遠方からの歌Ⅲ」(190607年)はホドラーに特徴的な両手を肩の高さに上げ、肘を直角に曲げてさらに手首も直角に曲げた女性が描かれている。私は「遠方からの歌」が好き。
「歩む女」「悦ばしき女」「恍惚とした女」など一連の作品や上記の女性の作品では、私は<筋肉>を強く感じた。ホドラー自身が筋肉を意識して描いたかどうかは知らないが、衣服から出ている腕、脚、あるいは裸体、どれも一番に感じたのは<筋肉>だった。

Part4 変幻するアルプス――風景の抽象化
抽象化といってもいわゆる抽象画ではない。風景をパラレリズム、リズムとして捉えているということだろうか。同じ場所から見た同じ風景のバリエーション。それは季節、時間によって異なる姿を描いているのだが、印象派とは全然違う。風景の色、力強さがとてもいい。リズムやパラレリズムも何となくわかる。
Part5
 リズムの空間化――壁画装飾プロジェクト
壁画をもってくるわけにはいかないので、数々の習作が展示されている。壁画そのものは映像や画像で見られる。スイス国立博物館の壁画「マリニャーノからの退却」は、スイスの敗戦を描いたもので、コンペで1等を獲得したものだそうである。こういう壁画に敗戦の記憶を選んだのは興味深いが、この敗戦をきっかけに永世中立国となったとのことで、そこにスイスのアイデンティティーが認められるのだろうか。「独立戦争に向かうイェーナの学徒出陣」は、ヨーロッパにも学徒出陣があったのかと、日本のかつてと重なり痛ましい思いで見つめた。
「全員一致」はリズム、パラレリズムが明らかにわかる。しかしここに見えるそれは、単に絵画の手法としてだけでなく、怖いようにも思えた。「全員一致」というタイトルからして危険なにおいがしてこない?
壁画じゃないけど「木を伐る人」「草を刈る人」はお札のデザインとして描かれたものだそうだ。私の好きな労働絵画であるが、原画を見るとどういう風にこれがお札に使われたのだろうとちょっと想像つかなかった。そういう人のために(?)、お札も展示されていた。スイス、やるぅ。
Part6
 無限へのまなざし――終わらないリズムの夢
「無限へのまなざし」はチューリヒ美術館の壁面を飾る絵画として描かれたもので、5人の女性が描かれた原画は実物大のレプリカ(布)で、11人の女性については習作が展示されていた。「無限のまなざし」だけでなく、群像画(?)などは習作がたくさん展示されていて、ホドラーがリズムやパラレリズムに基づく構図を色々考えていたことがわかる。この絵でも私は<筋肉>を感じた。この絵は現地で見たいなあ。
Part7
 終わりのとき――晩年の作品群
画家って死の床にある妻や子供を描かざるを得ない生き物なのかとしばしば思わされるが、ホドラーもやはり20歳年下の愛人の死を描いている。互いにどういう気持ちだったんだろうと忖度せずにいられない。彼女の死後、自身老いてからだが弱くなったホドラーが自宅窓から望んだレマン湖を描いた一連の作品は色彩も山の形もPart2の風景画と大きく異なる。私はPart2のほうが好きだが、こちらも悪くない。穏やかな気持ちになる。
Part1
20歳、Part228歳、Part761歳、64歳の自画像が展示されている。20歳のものを除いていずれもどこかで見たことがあるような感じ。64歳はゴッホかなと思う。
ホドラーには馴染がなかったが、絵はとっつきやすいし、面白かったし、見ごたえあった。
ところでホドラーは1853年生まれだから本当なら生誕160年で2013年に回顧展をやってもよかったのになぜ去年から今年にかけてかというと、2014年が日本スイス国交樹立150周年で、その記念行事の一環としてチューリヒ美術館展とともにホドラー展が行われたようである。


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