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2016年6月15日 (水)

師匠、自分、そして息子:歌舞伎夜話--市川右近丈

67日 歌舞伎夜話 市川右近丈(歌舞伎座ギャラリー)
参加者は94名だそう。右近さん、喋る喋る(4時間くらい喋るよ、って)、戸部さんの質問からはずれることも…。以下、歌舞伎美人の記事と重なる部分もありますが。
●まずは、タケルくん初お目見えについて。
2012
年演舞場で澤瀉屋4人の襲名の折、2歳9カ月だった息子を連れて猿翁さんに挨拶に行った際、5歳になったら初舞台を踏ませようと言われた。
息子は歌舞伎の派手なところに惹かれてはいたが当時まだ全編を見るのは難しかった。それが「ワンピース」を見てからすっかりはまり、全編を見られるようになった。自分から最前列で見たいと言い出し、右近さんが<自腹で>チケットを買った。やりたい役ははじめ巳之助クンのサンガと言っていたが、今はルフィ。白髭は自宅の白い突っ張り棒を武器にしてやっている。
今回のタケルくんの役は四代目に相談した。安徳帝は四代目が子役でやったが、その時の相模五郎が段四郎さん。今回、自分が相模五郎なので同じ。写真入りチラシが出来てきた頃から親はドキドキ。
稽古には早くから入らなければならないが、自分は舞台出演で指導できない。そこで3月ごろから子役指導の先生にお願いした。安徳帝のセリフは11個ある。稽古は29日~1日の4日間。1日目は浴衣で。稽古後、化粧に堪えられるかテスト。喜昇が担当してくれた(喜昇は子役の化粧を何十人もやっている)。このテストには合格。2日目は浴衣に鬘で。鬘は11人誂えるが、同じ人でも時間が経つにつれ頭の形が変わるため、なるべく本番に近い時期に合わせる。合わないと金属なので痛い。これも大丈夫だった。3日目は衣裳と鬘で。最終日は衣裳、鬘、化粧で舞台稽古。でも、これで最後じゃない。まだお客さんが入る。「緊張するなあ」と言うタケルくんに右近さんが「かぼちゃが並んでいると思えばいい」と教えると、「全部から揚げなら」と言うので、この子舞台が好きかも、と思ったそう(から揚げが大好物なんですって)。公演が始まってからは、掛け声や拍手を何回もらったかちゃんとわかるとのこと(大した度胸だなあ)。
台詞は、意味・情景を教えながら覚えさせた。と右近さんが安徳天皇のいくつかのセリフを例に挙げて「ここはこうこうこうで、と教えた」と説明する(それを聞いているだけで、場面が浮かんできてウルウルしてしまった)。「泣かせるところだから間違えてくれるな」と言っている。間違えると怒ってしまう。初日、歌舞伎座へ向かう車の中で稽古した時間違えたので怒ったら泣いてしまった(父子の様子が目に浮かぶ)。今は褒めるようにしている。
41
年間名乗ってきた右近を今度は息子が継ぐ。そうなると右近が3人になってますますややこしくなる(って?と思ったら)、というのは自分は本名が右近だから(あ、そうだったんだ。知らなかったわ~)。タケルの字画は武龍が一番最強だったが、タイトルロール通り片仮名にした。歌舞伎の出演者欄に片仮名の名が載るのは初めてかも。

●右團次襲名について。
右團次の名は、海老蔵さんが猿翁さんに話をして進んだ。右之助さんのところにも挨拶に行った。関西出身、ケレン、右つながりで違和感はない。屋号については師匠とよく話し合った。高嶋屋になっても師匠の弟子であることに変わりはない、師匠から受け継いだ芸を未来につなぐのが自分の使命であり、屋号が変わることによって逆に澤瀉屋の芸を広められるのではないかと思った。
右近さん自身の初舞台は8歳の時。やはり6月に南座「大岡政談天一坊」で本名の武田右近で出た。父親役は13世仁左衛門、母親役は秀太郎さん。さらに8月の南座花形でも松嶋屋さんと出た。未だに秀太郎さんに「あんた、うちの子だったのになあ」と言われる。
右之助
●師匠、そして右近さん史
6
月の南座「吉野山」は三代目猿之助さんの忠信に田之助さんの静。自分の出番が終わると毎日見ていて、帰りの京阪電車では狐になっていた。自分にとって「吉野山」はファンタジーである。狐の無垢が当時の自分の無垢な魂にリンクしていた。師匠と歌舞伎に憧れた。夜の部は「黒塚」と「四の切」で、1度だけ2階桟敷席で見た。感動した。
1
年後、「骨寄せの岩藤」で使ってもらい、憧れの師匠との共演を果たした。母の実家がお琴の先生で、猛特訓をした(志賀市役だったのね~。玉太郎クンの志賀市を思い出しつつ話を聞いた)。「骨寄せの岩藤」は大ヒットし、南座、新歌舞伎座、明治座に出た。小学校5年生の時で、7カ月働いた。翌1月に市川右近と名乗った。
「澤瀉ニュース」のゲストでインタビューを受けた時、「黒塚をやりたい」と言ったら師匠は「うん、それはいいねえ」と言いつつ困っていた。「渋いでしょう」と右近さん強調。ばあさんが子供に帰って踊る姿と右近少年の純粋無垢な心がリンクしていたのだ、と後日気がついた。
白髭と師匠は重なる。師匠のつもりで演じている。スーパー歌舞伎は1986年に始まった。社会人1年生の年だったが、1月は稽古中に試験があった(この時はまだ学生ね)。小学6年の時に師匠に慶応を受けてみないかと言われて自由自在だの応用自在だので勉強して合格した(懐かしい!! 私も自由自在、応用自在持ってた。持ってるだけ…)。高校の時に、師匠と父の話し合いで、「一生お預かりします」ということになった(高校生になるとみんな先のことを一考するらしい)。
部活に対する憧れはあった。中3の時、朝練に対する憧れでバレー部に入った。大学では水上スキー部(びっくり!!)。でも部活経験は実際にはほとんどない。
3で海外公演に行った。「俊寛」の瀬尾側供侍、「黒塚」の脇僧、「連獅子」の胡蝶の舞をやった。「連獅子」の宗論は言葉が通じないので無理だろうということで胡蝶の舞になったんだそうだ。海外の人に歌舞伎はわからないだろうと思ったら、大拍手。歌舞伎ってすごい、稽古不足だと奥まで客に見透かされていると感じた。それで緊張感が強くなった。ある時、踊りで扇を落した。すると客がはっと身を乗り出したように思えて、1人じゃない、客との一体感を覚えて心地よく踊れた。
25
26歳ごろ、歌舞伎をわかっていない自分に気がついた。古典をやっていなかったから。師匠も「あんたたちに古典をやらせていなかった」と行って、パルコで古典歌舞伎を始めた。932000年は古典を学ぶための勉強会をやった。師匠は「自分で気づけ」という人。師匠の衣裳の前を結ぶ役は5年間澤五郎さんがやっていた。ある日、「いたたっ。あんたの紐の結び方、きついんだよ」と師匠。(澤五郎さん、自分で気がつかなかったんだろうね)「5年前に言ってくれていたら」。
師匠が倒れて、自分はいつも師匠の方を向いて芝居をしていたことに気がついた(師匠のために芝居をしていたってことだったかもしれない)。
師匠は右近さんにとって神様みたいな人、心の支えである。

お話が終わった後、右近さんが11人と握手をしてお見送りをしてくださった。

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コメント

SwingingFujisanさま

ご無沙汰しています。スキップです。
詳細なレポをありがとうございました。
とてもおもしろく興味深く拝読いたしました。

先日歌舞伎座で「義経千本桜」を通しで観て、
タケルくんが安徳帝を立派に勤めていらっしゃるのを
目の当たりにして感激したばかりですのでなおさら。
「意味・情景を教えながら台詞を覚えさせる」
って、本当にすばらしい教え方ですね。
私もここ読んだだけでウルウルしてしまいました。

投稿: スキップ | 2016年6月16日 (木) 11時11分

スキップ様
こんばんは。コメントありがとうございます。こちらこそ、すっかりご無沙汰で申し訳ありません。

私も先日第1部を見てまいりましたが、タケルくんの安徳帝はセリフの意味をわかって演じていることが伝わってきて、感動しました。子供ってすごい能力を発揮するんですね。

義経千本桜の通し観劇、お疲れ様でした(素晴らしい)!! 私は3部バラで見ます…体力精神力に自信がなくてcoldsweats01

投稿: SwingingFujisan | 2016年6月16日 (木) 22時20分

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