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2017年9月 9日 (土)

4つの危機を乗り越えて―モリソン文庫

91日 東方見聞録展(東洋文庫ミュージアム)
東洋文庫がすっかり気に入っちゃって、又行ってきた。
今やっているのは「モリソン文庫渡来100周年 東方見聞録展~モリソン文庫の至宝」である。
今回はもちろん、素晴らしい至宝にも目を奪われたが、東洋文庫の歩んできた苦難の道に大いなる感銘を受けた。というのも、渡来100年、モリソンが蒐集を始めてからは120年、その間に4度の大きな危機があったからだ。

1の危機:義和団事変(1900年)
モリソンの蔵書は、清朝の税関近くのモリソンの自邸にあった。義和団の排外行動が激しさを増す中、モリソンは英国公使館のあるエリアに蔵書を含む財産を移動させた。しかしその地域でも銃撃戦、砲弾戦となった。よくぞ生き残った蔵書たち。動乱後、モリソンは北京の自宅にコンクリートの書庫を作ったとのこと。そういえば、文庫の入口にブラフォーの「北京の55日」が控えめに流れていた。
2の危機:大水害(1917、大正6年)
モリソン文庫が日本に到着したばかりの1917年930日(9月26日に汐留駅に到着しそのまま深川の三菱倉庫へ運ばれた)、暴風雨と高潮が東京湾岸を襲った。書籍は鉄板で覆った箱に入っていたため多くは難を逃れたが、一部は隙間から入った海水にさらされた。これらの資料は駒込に運ばれて洗浄、乾燥など復旧作業が行われた。これに尽力したのは石田幹之助という人である(モリソン文庫の購入・受領に尽力した人でもある)。石田氏はモリソンの蔵書を全部手に取り、その大きさ、厚さ、色合いなどを覚えたそうだ。
3の危機:関東大震災(1923、大正12年)
この頃、丸の内のビルの一角で文庫の整理作業が行われていた。ビルは鉄筋コンクリート製で文庫にはほとんど被害がなかった。貸出し中の研究書札が焼失したが、後に購入によって補填された。大震災の翌年、東洋文庫設立。

4の危機:第2次世界大戦中の疎開(194549年)
昭和203月、東京の空襲が頻繁になると、蔵書の疎開が検討された。蔵書は中国社会経済史研究家・星斌夫氏の郷里である宮城県に疎開した。1カ月後終戦を迎えたが、東洋文庫は財政の基盤が失われ、24千冊の資料を東京へ戻すことができないでいた。1948年に国立国会図書館の支部となったことで、1949年、すべての資料が無事、東洋文庫に戻ってきた。

 4つの大きな危機――ドラマチックなモリソン文庫の来し方にドキドキした。本当によくぞ、無事に生き残ってくれたと感嘆せざるをえない。上に名の挙がっている石田氏や星氏をはじめとする多くの人々の尽力があってこそではあるが、それでも不可抗力ということがある。貴重な資料の数々は火にも水にも弱い紙である。今年7月、パリを襲った豪雨から地方の博物館に避難していたルーヴルの美術品が何点か落雷による火災で焼損したという悲劇を思う(当の博物館の所蔵品も含めて200点近くが壊滅的な害を受けた)。またアフガンを思えば、義和団や第二次大戦をよくぞ乗り越えてくれたという気持ちになる。
こうした歴史を知ると、貴重な資料を見る目もまた違ってくるのは現金かしら。

展覧会のタイトルである「東方見聞録」については、1485年に刊行された世界で3番目に古いという印刷本(コロンブスもこれと同じものを愛読していたのだとか‼)に、各国語版、異本などがたくさん展示されている。


ところで、あの切ない映画「慕情」のウィリアム・ホールデン演じる従軍記者のモデルは、なんとこのモリソン文庫のジョージ・アーネスト・モリソンの息子イアン・モリソンなのである。ということをこのたび初めて知った。泣いたなあ、「慕情」。原作も読んだし、あの音楽を聞くと今でも切なくなる。あの従軍記者がモリソンさんの息子だったとは、なんとも不思議な感情が湧いてきて、ますます東洋文庫が好きになったとは、やっぱり私はミーハーである。

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