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2019年4月28日 (日)

四月大歌舞伎昼の部:「新版歌祭文」

4月15日 四月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)
例のごとく家の事情にて本当なら全パスするところだったが、「新版歌祭文」だけは何とか見ることができた。「鈴ヶ森」は何としても幕見でと願っていたのだが、結局あきらめた。せめてテレビで見られれば…やってくれないかなあ。

「新版歌祭文」
前半の「座摩社」は初めて見るにもかかわらず、眠いせいもあってよくわからなかった。小悪党の小助(又五郎)が法印妙斎(松之助)と組んでボンボン育ちの山家屋佐四郎(門之助)を騙す件は、何となく既視感が…。似たような話がどこかにあったのだろうが思い出せない。その後の久松が小助に騙されて銀を奪われる場面は「野崎村」につながる大事な話なのに、そのあたりで眠気がさしてきてしまい、又五郎さんは悪党だが憎めない、門之助さんは役にぴったりだったなと思ったほかは「座摩社」の面白みがあまりわからなかった。昭和54年*以来というのにもったいないことをした。
「野崎村」といえば、芝翫さんがいそいそと大根を刻む可愛らしさが記憶から消えない。あの時は先代雀右衛門さんのお染、藤十郎(当時鴈治郎)さんの久松、富十郎さんの久作、田之助さんのお常と主要な役がすべて人間国宝!! そういう芝居を見られたんだなあとあらためて感慨にふける。
時蔵さんのお光は都会的な雰囲気が出るんじゃないかと懸念したが、田舎娘らしい可愛さと気の強さがよかった。お染に対する態度も露骨すぎるきらいはあるが、わかるわかる。何しろこれから祝言をあげようというところなのだから。それが一転、二人の強い思いを知って身を引く。何度も手を合わせ母親とともに帰っていくお染に、「いいのよ、いいのよ」というように土手で首を振るお光の心情。お染が遠ざかると久松の駕籠を最後まで見送り、しばし立ち尽くす(両花道はやっぱりいいね)。数珠を落したことにも気がつかない。父親がそっと手に通してやると我に返り、「ととさん」と泣き崩れる。この場面はいつ見ても泣ける。二人を見送るお光は観音様のような(と言うより、なぜか私にはマリア様のように見える)あたたかさと心の広さで、それがどっと泣き崩れるのはそれまで抑えていた感情を支えきれなくなったのだと思うと、哀れである。
父親の気持ちはもっと切なく胸に迫る。歌六さんはまさに父親の愛情と心情を綿密に表現していた。

錦之助さんの久松を見ると、やはりこの人はこういう役がニンなんだろうなあと思う。錦之助さんに関しては骨のある役が好きなのだが、優しいが故の優柔不断、つっころばし的な役がよく合っている。
雀右衛門さんのおみつは可憐で、お嬢様が我儘を通すのではなく、久松が好きで好きでどうしようもないのだ、ということがよくわかった。だからこそ、お光も身を引くことができたのだろう。
<上演時間>「平成代名残絵巻」40分(11:00~11:40)、幕間30分、「新版歌祭文」128分(12:10~14:18)、幕間15分、「寿栄藤末廣」23分(14:33~14:56)、15分、「御存鈴ヶ森」39分(15:11~15:50)

*久々のおまけ:今が昭和何年か。昭和生まれの人は自分の生まれた年に自分の年齢をプラスすればすぐわかるんだって、「やすらぎの郷」で誰かが言っていた。当たり前のことにこれまで全く気がつかなかった。

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