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2019年5月28日 (火)

<興味深い>がたくさん:「トルコ至宝展」

5月15日 「トルコ至宝展 チューリップの宮殿 トプカプの美」(国立新美術館)
190528ottoman トプカプ――昔は「トプカピ」と言っていたと思ったが…。私はトプカピに少なからず思い入れがあり、今回の展覧会を楽しみにしていた。その割に3月20日から2カ月も期間があったのにまたまたほぼ滑り込みでの鑑賞になってしまった。思い入れというのは、ミーハーらしく、かつて見た映画「トプカピ」の影響。内容はほとんど忘れてしまったけれど、マクシミリアン・シェルにはまり、そしてトプカピに対する憧れみたいなものが芽生えたんだと思う。そしてカッパドキアも一度は訪れてみたい場所だ。

さて、トルコはなぜチューリップの国なのか。トルコ語でチューリップはlale(aにはトルコ語でなんというのかわからないが、フランス語のアクサンターギュと同様の記号が付く)と言い、そのアラビア文字を組み換えるとイスラム教の神アッラーとなり、逆から読むと三日月(トルコ国旗のシンボル。本当は新月なのだが新月は見えないので三日月になったんだとか)を意味する言葉にもなる。また、チューリップは1つの球根から1本の茎がのびて1つの花を咲かせることから神の唯一性を示唆するとされた。こうしたことから、トルコではチューリップが宗教的・国家的シンボルとなったのだそうだ。チューリップにこんな深い意味が込められているとは知らなかった。
ただ、チューリップはトルコ原産ではない。チューリップは天山山脈、パミール高原から地中海沿岸、日本(‼)、イランなどで生息していたそうだ。歴史を辿らなくてはならないが、1071年にアナトリア半島に進出し、中央アジアの文化の一つとして様々な植物とともにチューリップが入ってきたのだとか。それでも、トルコの美術品にチューリップが表現されるようになったのは12世紀になってからなんだそうだ。今回の展示品は16世紀から19世紀のものなので、ほとんどにチューリップのモチーフが使われている。チューリップ用の花瓶もあった。すっと細長い形状で、下の部分が丸く膨らんでいるものが多い。頸の部分が細長いのは花の頭が垂れるのを防ぐためで、胴の部分や下が膨らんでいるのは、蕾の状態で切り花にされるチューリップの鮮度を保つため水がたっぷり入るようにとのこと。チューリップへの愛が感じられる。美術品に描かれた花を見ると、トルコのチューリップと日本のチューリップはちょっと形状が違うみたい。

さすがオスマン帝国。スルタンの権力の大きさ、ハンパない。展示品の数々の見事なこと、スルタンの力に圧倒される。刀やターバン飾り、ベルトといった小物を飾る宝石の数々、上等な布を使ったスルタン一家の衣類。しかしそれらはド派手というのではなく、宝石類をふんだんに使っていたとしても細工が細かく丁寧で、生活感があり、嫌味がない。
衣類は興味深かった。カフタンという上着やシャルヴァルというズボン、チャクシュルという皇子の靴付きズボン、エンターリーという皇女の長衣など。国家権力の象徴性を形にしたものの一つがスルタンの衣裳だそうだが、とくに儀式用のカフタンを見ると納得である。半袖のカフタンを長袖にできるようにと作られた付袖が面白い。
度肝を抜かれたのは日蔭テント(サーイェバーン)である。前に2本の支柱、後ろは地面に接する杭に結ぶのだが、庇部分が250×812cm、背部が395×390cmというこんなに大きな布を織るのは大変だっただろう(ウール織物)。このテントの下で休憩するスルタンや高官の姿を想像しながら眺めた。
もっとも興味深かったのは日本との交流である。自分の記録のためにも、図録を参考にその歴史を書き留めておく。
オスマン帝国と日本の公的な接触は明治時代。1887年ヨーロッパの軍事状況視察から帰国する途中に小松宮親王夫妻がイスタンブールを訪れたことに始まる。親王夫妻はスルタン・アブデュル・ハミト2世(1876-1909)とユルドゥズ宮殿(トプカプじゃないんだ)で会見して宝物殿を見学した。これに満足を表すため、明治天皇はアブデュル・ハミト2世に大勲位菊花大綬章(日本の最高位の勲章)を贈呈した。
アブデュル・ハミト2世は小松宮親王訪問の答礼として、日本およびアジア諸国と協力関係を結ぶことを目的に1889年7月、軍艦エルトゥールル号を派遣。エルトゥールル号は1890年6月に横浜港に到着した。賓客としてもてなしを受けた乗組員たちは同年9月15日に帰国の途についたが、激しい台風に遭い、翌日和歌山県樫野崎半島の岩に衝突して沈没。91年、生存者とともにイスタンブールを訪問した野田正太郎(1868-1905)は時事新報社が集めた最初の義捐金の大半をオスマン帝国外務大臣に託した。そしてスルタンの要請により。野田は陸軍学校のトルコ人学生に日本語を教え始めた。この和歌山県での遭難は有名な話なのでおおまかに知っていたが、その前後の日土関係については知らないことがほとんどだった。
1892年4月、山田寅次郎がイスタンブールに到着、エルトゥールル号の犠牲者遺族に義捐金を渡した。山田は野田の仲介で、山田の実家である中村家の家宝の鎧・兜・太刀をスルタンに献呈し、帰国する野田からトルコ人学生への日本語教育を引き継いだ。翌年、山田は日本に一時帰国し、中村健次郎とともにトルコへ戻り、中村商店を開いた。山田が支配人を務めた中村商店はオスマン帝国と日本の貿易の唯一のパイプ役だった。
野田正太郎、誰? 新聞記者だそうだから、時事新報の記者だろう。山田寅次郎、誰? オスマン帝国と日本の友好関係と宮廷コレクション形成のうえでとても重要な人物だということだ。スルタンから勲章を授与されており、彼に関する文書が多数イスタンブールの総理府文書館に納められているそうだ。
そんな繋がりもあって、日本から贈られたもの、輸入したものが展示されていた。先述の大勲位菊花大綬章、中村家からの甲冑に金太刀、有田焼の陶磁器、160cmほどもある有線七宝の花瓶、寄木細工の書き物机、竹製の鏡枠や違い棚等々。中でも興味深いのは、明治天皇からスルタンに贈られた指物道具!! なんと、スルタン・アブデュル・ハミト2世は大工仕事が好きで得意だったそうなのだ(ルイ16世も大工仕事が好きだったと思いだした)。それを知った明治天皇が個人的に贈ったとのことだ。なんか微笑ましい。

トルコについてはまだまだ知らないことがいっぱいだが、いくつか新しい知識を得たし、初めて見る美術品ばかりだったし、楽しかった。見てよかった。

展覧会の構成は、

第1章「トプカプ宮殿とスルタン」
第2章「オスマン帝国の宮殿とチューリップ」
第3章「トルコと日本の交流」



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