新派

2017年6月30日 (金)

6月追記

書き忘れていたこと。

1.「名月八幡祭」のラスト、満月が本水の舞台床に映ってとてもきれいだった。さっきまで賑やかだった舞台に人は誰もおらず、煌々と照る月だけが余韻を残した。

2.初めて見た「名月八幡祭」の美代吉は福助さんだった。あれから7年。初めて見た「弁慶上使」のおわさは福助さんだった。あれから12年。そう思い出すと、福助さんが演じた色々な女性が脳裏に浮かんできた。

3.「黒蜥蜴」のプログラムで久々に「大ぜい」と書かれているのを見た。仮面舞踏会の男女、私服刑事、一寸法師の手下、岩瀬家の女中。今回の「大ぜい」は、名前の載っている出演者がその場面で大ぜいの人々に扮していたと思われるが、昔の歌舞伎座の筋書きでは名題下さんの名前が載っていなくて「大ぜい」になっていたものだった。今は全員の名前が載っているのが、こちらとしてもうれしいし、ありがたい。

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2017年6月19日 (月)

スーパー新派誕生:「黒蜥蜴」

617日 六月花形新派公演「黒蜥蜴」(三越劇場)
「黒蜥蜴」はまったく初めて。原作も三島戯曲もお芝居も。というわけで、比較の対象は何もない。全体に乱歩は原作を読んでいないし、テレビでは比較的最近ちょこちょこ見たけど、芝居は歌舞伎の「人間豹」だけ。

劇場内の装飾といい、雰囲気といい、規模といい、三越劇場はまさにこの作品にぴったり。劇場そのものがこの物語の舞台となっていると言ってもいい。そして出演者も黒蜥蜴に雪之丞さんを得たことで妖艶で奇怪な世界が目の前に展開し、明智との成り行きもどうなるのかと、とても面白かった。一寸法師、怪人二十面相、人間椅子といった乱歩の他の作品との絡みもある。
これが新派か、と驚くような芝居ではあるけれど、新派のもつしっとりとした情緒は失っていない。これは「新派の黒蜥蜴」なんだ。スーパー歌舞伎ならぬスーパー新派、緑郎・雪之丞によって新しいジャンルが開けたのかもしれない。
第一部はちょっと眠くなった瞬間があったが、第二部はスピーディーな展開で、なんとだんまり(!)があったり、「ヤマトタケル」の火の踊りを思わせるような緑郎さんのパフォーマンスがあったり(やっぱり歌舞伎でも段治郎さん、見たいよ)、派手な立ち回りで飽きさせない。もちろん、そういうアクションばかりでなく、黒蜥蜴と明智の心理戦、そして「あらっ」という展開にわくわくした。
雪之丞さんは冷酷で気位高く美しく、堂々たる女盗賊ぶり。しかし明智に寄せる心に黒蜥蜴の寂しさ、満たされなさがあらわれているようだった。本当はどこかで<女>になりたかったかもしれないが、<女>には戻れない宿命のようなものにラスト、哀れを感じた。黒蜥蜴は雪之丞さんの持ち役になるだろう。明智と2人で踊るタンゴになぜか笑いが起きちゃったのは、タンゴというダンスの特徴に思わず笑ったんだと思う。
緑郎さんの明智はスマート、カッコいい。冷徹な中に熱い血がたぎっている。それは悪への怒りであり、それでいて悪の張本人への愛であり、明智にはこういう面もあるのか、それも含めて明智は緑郎さんにぴったりだわと思った。緑郎明智の活躍を他の作品でも見てみたい。

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2016年9月18日 (日)

贅沢な観劇:「銀座復興」

913日 演舞場発花形新派「銀座復興」(新橋演舞場 地下特設会場 東)
「銀座復興」は6月の三越公演を見逃してしまい残念に思っていたところ、この公演情報があり、飛びついた。というわけにはいかず、芝居は見たい、でも食事つきのため11,000円と高い。でもやっぱり見ておきたい、それにたまにはこういう贅沢もいいか…ということで席を取った。
チケット予約時点では食事が先かどうかわからず、もし先の場合は観劇中寝てしまいそうだと心配だったから、後ろ目の席で、食事中グループの中の1人はちょっと寂しいから、1人で来ていそうな人がいるテーブルを選んだ。
実際は観劇が先だったのでもっと前の席にすればよかったかな。でもやや見切れるところはあったものの、そんなに気になる問題ではなく(花道が見えないのには慣れてるしね。おっと、「東」の花道は舞台と直角に交わるものではなく、舞台を降りた延長だった)、何しろあの「東」に舞台を作っての芝居だから客席と舞台との距離がうんと近いため、ほどよい間隔だったかも。
「銀座復興」
場内が真っ暗になり、地震の轟音が響く。作り事ではないリアルな怖さを感じた。経験の有無の差は大きい。それが関東大震災であり、震災からの復興だってわかっているのに、「復興」「復興」と聞くたびに戦後の復興と勘違いした。主人公文吉(田口守)の「戦にも行って勲章をもらった」というセリフにもつい第二次大戦を思い浮かべてしまった。私が感じた芝居全体の空気が大正感ではなく昭和感寄りだったからだろうか。
上演時間が1時間ちょっとと短かったので(タイムテーブルより短かった)、せっかく復興の先陣を切った「はち巻」の後に続く者が出てこないもどかしさがやや伝わりにくい気がした。いっぽうで、常に前を向いて歩こうとする文吉と牟田(喜多村一郎)からは希望が失われることなく、心強い思いがすると同時に応援する気持ちになった。
田口守さんと瀬戸摩純さんが夫婦役なのは意外だったが違和感はなかった。田口さんはセリフが危ないこともあったものの、「振袖纏」の時と同様、芸の力で押し切った。復興のために頑張っている姿が感じられたのはとてもよかった。一番に店を再開させたとはいえ、物がない時に仕入も仕込みも大変だったろう、お客はどのくらい入ったのか、経済的にやっていけるのか…そんな心配をしながら見ていたが、文吉さんからは苦労や愚痴が見えてこない、聞こえてこない。悪い意味じゃなく、とにかく前を向いているという姿勢なのだ。瀬戸さんは上品で、時に弱音も吐くが夫を信じ支える妻のけなげさがぴったり。
一郎さん(私の中ではまだ猿琉さんなんだよな~)は爽やか好青年。三越劇場では山岸を演じたそうだが、ニンは牟田だと思う。文吉同様、一面焼け野原の町で当然苦労をしているだろうにそれを感じさせないひたすら前向きで元気な牟田が物語の世界を明るくしてくれた(牟田の仕事って何だったっけ?)。「社会は一度進んできた道を決して後戻りしない、東京は前より立派になる。その中心となるのは銀座」だと言う牟田の言葉は印象的だった。一郎さんは新派にも溶け込んでいて、一郎さんのためにも新派に移ったのはよかったかもしれないと思った。
山岸の市村新吾さんは東京にも銀座にも絶望した心の屈折の表現がよく、市村さんも山岸のほうがニンだと思った。ラスト、山岸の明るい笑顔を見てほっとした。光井の児玉真二さん、千八重の川上彌生さんは出番は少ないが、ちゃんとその空気の中に入るというか役作りがうまかった。
出色は稲村の笠原章さん。こういうおじいさん(って言ったら悪いかな)いるよなと思ったし、酒の飲み方酔い方、日常感の出し方が自然で感動してしまったほど。
舞台はバラックの「はち巻」内部だけなのだが、雷雨や虹、焼け野原の銀座、そこで行われている復興のイベントといった外の光景が見えるような感覚を覚えた。とくに瀬戸さんが虹を眺める場面は優れていた。日常のありがたさよ。

「銀座復興」のモデルとなった店は、今も銀座で営業している「はち巻岡田」。今年で創業100年だそうです!!



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2016年9月17日 (土)

「婦系図」に鳴りやまぬ拍手

911 九月新派特別公演千穐楽夜の部(新橋演舞場)
160917kitamura チケットを取った時は、私も含めて1列の両端しか売れていなかったのが行ってみたら私の列はだいぶ埋まっていた。それでもやっぱり見える範囲は寂しい。
「口上」
初日とほぼ同じだが、違う部分を少し(初日と同じ方は省略)。
八重子:喜多村緑郎襲名は「おめでとう」ではなく「ありがとう」と言いたくなる。(緑郎さんが若くなって戻ってきた、のところで客席から笑いと拍手が起きた)
松也:昨年9月、月乃助最後の舞台で共演した自分が今回出演するのは何かの縁。(「あらしのよるに」でのアクシデントの話は出なかった)
春猿:竹馬の友と言うべき人の襲名は誇らしい。
猿弥:かわいい後輩が歌舞伎から新派に活躍の場を移し、ますますの活躍をするのは嬉しい。(ダンちゃんの話は出なかった)
久里子:先代は私の祖父六代目菊五郎と懇意で、「一本刀土俵入」の我孫子屋で共演し(菊五郎:茂兵衛、緑郎:おつた)、父との共演では「瞼の母」で母親役をやってくれた。大先生の名前を継いだことは嬉しい。(初日にもこの話をしていたような気もするが、私が書いていなかったので)
緑郎:初代は新派のみならず、日本の演劇界に大きな足跡を残した人。29年間師匠のもとで修業してきたことを糧に茨の道に真正面から挑む。
「婦系図」
8年前に仁左様の主税、久里子さんのお蔦、八重子さんの小芳で見ている。その時が初見で、それまでもっていた「婦系図」に対する認識ががらっと変わったものだった(それまで「婦系図」の世界をほとんど全然知らなかったことを認識したと言ったほうが正しい)。今回は初代喜多村緑郎本による上演で、前回とは少し違う箇所があるようだった。
前回、だいぶ理解が進んだその世界だが、やっぱり未だよくわからないのが真砂町の先生(柳田豊)と主税の心の関係。先生がどれほど主税を可愛がっていたのか(柳橋の柏家で主税についに「女を捨てます」と言わせた後、「涙を乾かしてから外へ出ろよ」と声をかけた先生の気持ちにはちょっと心打たれた)、主税がどれほど恩義を感じていたかはわかるのだが、お蔦と主税をどうしてそこまでして別れさせたいのか、前回と同じ疑問が残った。自分自身芸者に子を産ませてしまったことへの苦悩がそうさせたのかもしれない。でも、ラスト死の床にいるお蔦のもとに駆けつけて許しを乞うなら…って、そういう時代だったんだろうな。
久里子さんは可愛らしくいじらしい。一途で耐え忍ぶ哀しい女がよく似合う。久しぶりに主税と連れだって湯島の境内を歩く姿には日蔭の女の嬉しさ、愛らしさが全身からにじみ出ていた。体調がすぐれないお蔦も体型が変わるわけじゃないのに、病んだ感じがよく出ていたし、得難い役者さんだなあとつくづく思う。
緑郎さんもこういう世界がしっくりくる役者さんだ。芸者と一緒になる人だし、河野家に対する怒りが、この時代のもう一つの道徳観を表していると思った。お蔦に別れを告げるときの血を吐くような気持ち、セリフにはこちらも思わず力が入った。河野家の秘密を暴いていくテンポのよさはカッコよかったが、罵倒する場面はちょっと熱すぎるというかヒステリックな印象を受けた。もっとも、そこには元スリであるという経歴を感じさせる何かがあったような気もしないではない。ただ、前回も感じたことだが、ここはどうも後味がよくない。
由香さん初舞台の妙子は、声が可愛く、一生懸命にセリフを言っている感じが初々しくて、素直に愛情たっぷりに育ったお嬢様らしさが見て取れた。小芳(八重子)が、産んだのは自分だがあんなにいいお嬢さんに育てたのは奥様、とお蔦に言うセリフに感動した。
ラストは泣けた。
幕が閉まっても拍手は鳴りやまず、終演のアナウンス中に幕があいて、緑郎さんと由香さんが出てきた。緑郎さんは花道の中ほどまで行って手を振っていた。モニターは自動的にonになるのだろうか、その様子を映し出してくれた。悲劇のラストにカーテンコールがあっていいのかとも思わないじゃないけど、これだけ拍手が続いたのはよかったよね。
<上演時間>「口上」15分(16001615)、幕間20分、「婦系図」一幕・二幕45分(16351720)、幕間10分、三幕45分(17301815)、幕間35分、四幕・五幕70分(18502000

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2016年9月 8日 (木)

祝・喜多村緑郎襲名:九月新派公演

91日 九月新派特別公演初日昼の部(新橋演舞場)
やっと今月分。
市川月乃助改め二代目喜多村緑郎襲名披露公演の初日である。お祝いの意味も籠めて、また喜多村緑郎としての第一声を聞きたくて、昼の部を取った。とはいえ、席は3A席。1階、2階はいざ知らず、3階席はかなり空席が目立って驚いた。平日ではあるが、襲名公演としてはなんとも寂しい入りで、これでは緑郎さんも出演者もがっかりしているんじゃないだろうか。
「振袖纏」
物語として色々考えさせられた。老舗の質屋大黒屋の息子・芳次郎(松也)が家業を嫌って纏持ちに憧れ、家を飛び出して「ち組」にやっかいになっている。若旦那に戻ってきてほしい番頭・竹蔵(田口守)があの手この手で、とりあえず若旦那を連れ出すことに成功するが、途中で火消しの娘・お喜久(瀬戸摩純)が追いついてきて、芳次郎を取り戻す。と言っては言葉が悪いが、芳次郎とお喜久はお喜久の親も認める恋仲で、お喜久のおなかには芳次郎の子ができていたのだ。それを知らされた芳次郎は生涯実家には帰らない決意を固める。竹蔵は、子供が生まれたらその子を大黒屋でもらうという約束を取り付ける。そして1年後、生まれた男の子は芳次郎とお喜久の手で大黒屋の前に捨てられる。事前にそれを知らされていた竹蔵がすぐに赤ん坊を拾い、芳次郎の両親に事実を教えないで差し出す。でも、芳次郎の母親は赤ん坊の顔を見てすべてを察したのである。
と言うのが前半。そこだけで、親のエゴ、子供のエゴ、老舗を守らねばならない定め、等々考えさせられた。子供に家業を継がせたい親の気持ちはもっともだし、それに縛られたくない、自分の人生を歩みたい子供の気持ちもよくわかるし、それをエゴと言ってしまっていいのだろうか…。でも、生まれてきた赤ん坊が絡んでくると、どうなんだろう。そして後半、怪我で片目が見えなくなり纏をもてなくなった芳次郎には小頭への出世の道が開かれていたが、芳次郎はあくまで纏持ちに固執する。「纏に命を懸けている」と言う芳次郎だが、仕事に迷惑をかけることを考えないのか、なんか成長していないなあなんて思ってしまった。
一方、実家の親に顔ぐらい見せようとする芳次郎を何が何でも引き止めようとするお喜久は、おなかに赤ん坊がいるし、一度帰したらもう二度と自分のもとには戻ってこないかもしれないという不安はわかるけれど…。若さゆえのエゴか、いや一途と言うべきか。
竹蔵もお店を守りたい一心ではあるが、子供を質に取る(言葉は悪いが、そういうことでしょ)なんてやっぱりエゴじゃないか…。
でも、みんなエゴじゃないんだよね。それぞれがそれぞれの大事な人を守ろうとするあまりのことなんだよね。
親とお喜久の間で揺れ動き苦悩する芳次郎の松也さんは狸吉郎の時より好き。赤ん坊をおぶっている姿に、荒川の佐吉をやらせてみたいと思った。

瀬戸さんは芳次郎と一緒になりたい一心の女心と気の強さを好演。自分の産んだ子を手放す悲しみを乗り越える強さが切なかった。松也さんとのコンビもいい感じだった。
田口さんは、セリフの間がちょっと「あれ?」と思うようなところがあったが、そこは芸の年輪で押し切った感じ。
「ち組」の女房の春猿さんは、だいぶ新派に馴染んできた感じ。体の大きさが気にならなかったのは、火消しの男たちの中に混じっているせいか、あるいは頭が猿弥さんだったからか。それはともかく、鉄火肌な女がよく似合っていた。初孫を手放す心情は描かれていなかったけれど、義理を重んじる世界だろうから、何もかも呑みこんだのだろうか。
大事なラストにつながる火事のシーンは長かった。裏で火事場の騒ぎの声を聞かせながら幕が赤い炎を映しているだけで、ちょっと飽きた。初日ゆえ、中の準備に時間がかかっていたのかもしれない。
大人の思惑で、ほんとうの親ではなく祖父母を親として育つ子供が本当に幸せならいいんだけど(物語では愛情たっぷりにいい子に育てられていた)。子役が賢そうで可愛くて、ラストは泣けた。川口松太郎は、やっぱりどこかに泣ける場所を作るんだなあと思った。

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2016年7月23日 (土)

6月分⑦:6月新派公演

625日 六月新派特別公演(三越劇場)
チケットを取るつもりだったのに、仕事がモーレツになってきて取りそびれていた。でも、月乃助の名での最後の舞台、しかも国定忠治とあってはどうしても見たくなって、急遽千穐楽を取った(仕事を考え、翌日の歌舞伎座第三部は涙をのんだ…。でもそのおかげで仕事はぐ~んと捗った。そうじゃなくちゃ、犠牲にした第三部にも申し訳ないし)。
「深川の鈴」
人情もの。久里子さんは本当に不思議な役者さんだ。失礼ながらお年も若くはないし、決して美人というわけでもない。それなのに、とても可愛らしくきれいなのだ。そしていじらしい。物語の雰囲気をしっかりまとっている。久里子さんの演じる人物は手を握り締めて応援したくなる。お糸もそういう女性だった。
お糸を娘のようにかわいがっている元講釈師の円玉役の立松昭二さんの人情深さに胸打たれた。おしも役の川上彌生さんは、深川っ子の自然な気の強さが嫌味なくてよかった。伊藤みどりさんは蓮っ葉で意地悪くイヤなババアを好演。善人が多い中、こういう人がいると面白い(お芝居だからね、現実にはこんな人いてほしくないに決まってる)。
月乃助さんは、この前の河竹繁俊同様、文学青年役。信吉は繊細ではあるがひ弱ではない男の意地が見えた。
「国定忠治」
新派×歌舞伎×新国劇な舞台だった。
月乃助さんが信吉とは180度変わって侠客。高く柔らかい声だった文学青年に対し、忠治は低くドスの利いた声で、股旅姿もよく似合い、めちゃくちゃカッコいい。組を解散(っていう表現は違うか)する件は、親分としての貫録・大きさに義理を重んじる侠客の心意気に打たれた。「赤城の山も今夜を限り」は生で初めて聞いた。
さて、5分の休憩を挟んだ次の幕にはびっくりした。国定忠治ってこんな喜劇だったの? あこぎな商売をしているあくどい山形屋をとっちめるため、忠治は彦六という男に扮し、山形屋に対し下手に出ていろいろまくしたてるのだが、それが名古屋弁で、あの忠治が声もそれらしく変えて「みゃあみゃあ」言いつつ、1人で喋り続ける可笑しさったら、笑った笑った。しかし山形屋が応じないとわかると、「下手に出りゃあいい気になりやがって」と国定忠治に戻る。忠治の名はそこらじゅうに鳴り響いているようで、山形屋はびびりまくり。ついに忠治に徹底的にとっちめられる。この山形屋がなんと伊吹吾郎さんで、それこそあの伊吹さんが!とびっくりやら可笑しいやら。伊吹さんは時代劇をやっている人だから、さすがに空気の出し方がうまいと思った。

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2016年3月22日 (火)

国立3月は15年ぶりの新派公演

318日 新派公演(国立劇場大劇場)
160322kumagaisakura_2 三越劇場でも空席があるのに大劇場で大丈夫なんだろうかと心配していたけれど、見える範囲で1階席、2階席は予想以上に入っていた。逆に3階がガラガラ。歌舞伎とは違うんだね。
「遊女夕霧」
何の予備知識もなかったから、例の吉田屋の夕霧のことかと思いきや、全然関係なく、時代は大正、場所は吉原、金蓬莱という遊女屋でトップにはなったもののちょっと地味な印象を受ける遊女であった(「私というおなごはちっとも面白くもなんともないおなご」で、5年も苦界勤めをしているにもかかわらず「一度だって浮いた噂がなかった」と夕霧自身が言っている)。このお話は川口松太郎「人情馬鹿物語」の1編だそうで、まさにそのタイトル通り、夕霧は人情馬鹿だ。
夕霧は自分の「積み夜具」のために呉服屋の若い番頭与之助(月乃助)が得意先を騙して大金を得たことを知ると、逮捕された彼を助けようとその得意先11軒に、騙したのではなく借金したことにしてくれと頼んでまわる。夕霧の強い情にほだされた検事が17軒全部から借用証を取ってくれば起訴猶予にすると折れたのである。検事は果たして17軒全部が承知するかどうか疑っていたかもしれない。
ここで描かれるのは講釈師・悟道軒円玉(柳田豊)の家での経緯だが、円玉同様その身勝手さに腹が立ち、彼女が熱心に頼めば頼むほど、腹立ちが増してきたというのが正直なところ。情の深い女のちょっと嫌な面だろうか。円玉の内儀の口添えもあって円玉が承知すると、夕霧は与之助とのなれそめを語る。そして夫婦約束をしていたにもかかわらず、与之助が出て来たらきっぱり別れると言う。自分のような女が女房では与之助の出世に響く、夫婦にはなれなくてもいつかは力になり合える時がくる、この世に生きている限りきっと力になり合える時がある、と。そう自分に言い聞かせるように、また円玉にすがるように同意を求める夕霧。
現代なら、若い男をそんなに甘やかすから世の中間違った方向にいっちゃうんだよ、と言いたいところだけど、月乃助さんの与之助は夕霧の情にきっと応えて立ち直ると思わせる純粋さがある。そして久里子さんの夕霧には苦界に沈みながらも、いや苦界にいるからこその一途な思いに懸ける哀れさがあった。
円玉の柳田さんも頑固な中に人の心の機微を感じ取る優しさがあって、とてもよかった。
男に罪を犯させたのは自分のせい、その男を救い、自分は身を引く、現代の若者には理解できない世界かもしれない(若者でない私でさえ、納得できないものがある)。だからこそ、若者に見てほしいと思った。日本人が人情馬鹿だった時代を表現できるのは、まさに新派なのである。また、この芝居にはセリフのない時間が多く、この「間(ま)」にそれぞれの人の思いが滲み出していたが、これも新派の良さなのだと思った。

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2016年1月21日 (木)

初春新派公演

112日 初春新派公演(三越劇場)
急遽取ってもけっこういい席だったということは、やっぱり空席が目立つ。もったいない。月乃助さんも入団したことだし、第一日本人として新派の火を消してはいけないと思う。ふと気がつくと、私と同じ列のちょっと離れた席に山川静夫さんがいらした。
まずは「ご挨拶」。八重子さんと久里子さんが金屏風の前に立ち、初春の挨拶を述べた後、久里子さんが「嬉しいことがありました。姉からご報告を」と振ると八重子さんが「月の世界から王子様がやってきました」(この言葉のための名前みたいだよね)とにこやかなお顔。そして月乃助さんが登場する。カッコいい‼ 「大家族の中に入って八重子さん、久里子さんを師と仰ぎ(お2人、照れくさそう)、新派を汚さぬよう努力する」という月乃助さんの後を受けた八重子さん、「嬉しいけれど重い言葉」。八重子さんはこの「挨拶」だけのご出演だった。
ところで、月乃助さんの前名は何だったっけ、とず~っと考えてどうしても思い出せず、ついにこの日は出てこなかった。あれほど、段治郎という名前がしっくり素敵に似合っていて、月乃助にはなじまないと思っていたのに、段治郎の名を思い出したのは翌日もだいぶ時間が経ってからだった。月乃助さんは9月に喜多村緑郎を襲名するが、私はやがて月乃助の名も思い出さなくなるんだろうか…(認知症の始まりかも)。
「糸桜」
黙阿弥の娘・糸とその家族のお話で、先年他界された河竹登志夫さんの「作者の家」を原作とした新作のお芝居である。黙阿弥は今年生誕200年であるからして国立でも黙阿弥ものがかかっているし、それをつい先日見てきたばっかりだし、どんなお話が展開するのか興味深い。
あらすじは、ココを見てください。
新作だからか、全体として見るとちょっとぎこちないような感じを受けたが、久里子さん(糸)、月乃助さん(繁俊)、大和悠河さん(みつ)、それぞれがそれぞれの人物像をよく捉えてよく表現していたと思う。久里子さんは、父親への敬愛と父親の作品を守ろうとする娘の固く強い意志が周囲を困惑させることがあっても、貫き通そうとする。その思いや、糸という人の孤独感(糸自身が孤独だと思っていたかどうかわからないが)が切々と伝わってきた。
丸眼鏡の学生姿で通路から現れた月乃助さんのカッコいいこと。新派の風情をしっかり醸し出している(客演した時から新派にしっくり合っていたもの)。あんなに強いくせに雷にだけは子供みたいに怯える糸を寝かしつけるために繁俊が黙阿弥の台本を読み聞かせる場面が可笑しい。棒読みみたいな繁俊に「そうじゃない」とセリフの言い回しを教える糸。月乃助さんにしてみれば、下手に読むのは難しかったかもね。狂言作者になることを条件に養子となった繁俊が、自分は狂言作者にはならない、黙阿弥の作品管理をしたいと糸に告げる場面。いつも糸の言うなりで、「初めて1人で決めた」その決心は、幕開きに逍遥邸内の稽古場で松井須磨子が稽古していた「人形の家」と同じだと思っていたら、繁俊のセリフにもそれがあった。繁俊は逍遥の口利きで河竹家の養子になったのである。最初が伏線となっていたのか。
戯作者にはならないと言い張る繁俊と怒りまくる糸の喧嘩は歌舞伎みたいに「さあ」「さあ」「さあ」となったが、ちょっと唐突な気がした。繁俊の意志は「許してもらえないのなら河竹の名を返上し家を出る」と言い出すほど固い。
さあどうなるか。というところで、時は進み、関東大震災が起こる。いや、その前にみつが産気づくんだったっけ。この時間経過がわかりにくかった。黙阿弥の家(本所)は揺れの割にはきれいだなと思ったが、火事を知らせる半鐘が鳴り、糸たちは土蔵の中の黙阿弥の台本を必死で守ろうとする。被服廠に逃げるといいと勧められたと近所の人たちが言っていたから、糸たちもそちらへ逃げたのだろうか(そっちへは行っちゃダメ、と教えてあげたい)。

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2015年6月 7日 (日)

悲しい愛の2作:「十三夜」「残菊物語」

64日 「十三夜」「残菊物語」初日(三越劇場)
平日13時とはいえ、初日なのにかなり空席が目立って、役者さんもだろうけれど私もちょっとがっかりした。確かに明治大正と今の世の中とでは恋愛事情は大きく違うかもしれないし、古臭いと言えば古臭く、若い人を呼び込むにはむずかしいのかなあと思う。私自身苛立つ気持ちもなくはない。でも、日本人の奥底にあるものは変わらないんじゃないだろうか。
「十三夜」
つい先日見たばかりの「駆込み女」を思った。
せき(波乃久里子)は望まれて無理矢理嫁に行った先の夫の仕打ちに耐え兼ね(身体的暴力があったかどうかはわからないが、少なくとも言葉のDVにせきの尊厳は大きく傷ついた)、ある夜、子供を置いて実家に戻り、別れる決意を両親に告げる。母親はせきの夫に怒りを覚えるも、父親は子供のことを考えて離婚を思いとどまるように諭すのだ。私は母親だからせきの母と同じように怒り、娘の決意を受け入れるだろう。父親の考えは当時の男のものだと思う。しかしその一方で、せきの中に本当に子供を捨てて家を出る覚悟が十分でないことを父親は見抜いていたのかもしれないとも思った。せきは結局、父親の説得を呑み、寂しく家に戻るのだ。久里子さんがぐっと感情を抑えてこれまでのいきさつを両親に語る姿には、当時の女の立場の悲しさが滲んでおり、時にこらえきれない感情を噴き出させつつそれを再び抑えるのには、娘として甘えられるのは親しかいないけれども親に迷惑はかけられないというつらさが溢れていて、泣けた。
偶然出会った、昔の思い人録之助(松村雄基)とそのまま駆け落ちすればいいのに、と無責任にけしかけたくなったが、録之助がうだうだと自分の状況を語る姿を見ていると、この時点で一緒になっても結局はうまくいかなかったに違いないと思わざるを得ない。この場面は、白い月光が、俥夫と客という以上の立場の違いを静かに照らし出しているようで秀逸だった。
そもそも身分違いの結婚、花嫁修業もこれからというところの教養も教育も不十分ながらなまじ美貌だったために資産家に見初められたのがせきの不幸だった。せき自身は教養を身につけたいと望んでいるにもかかわらず夫はそうさせない。そしてせきは夫に乳母としてしか認められないようになる。明治という時代の空気を感じながら、自分の尊厳に気づいた女たちの取る行動は、たとえ成就しなくても江戸から変わらないのかもしれないと思った。と同時に、母親であることが女の強さでもあり弱みでもあるのかなあとも思った。

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2015年1月 4日 (日)

新派初春公演

14日 初春新派公演 花柳章太郎没後五十年追悼(三越劇場)
新派は見るつもりではいたものの日程が決まらず、チケットはぎりぎりまで取らないつもりでいた。そういう場合、結局は見ないで終わることが多いけれど、背中を押したのは昨日の「夢の食卓」(BSフジ)であった。たまたま月乃助さんのツイッターを見たのが「夢の食卓」開始2分前。急いでテレビをつけて見た。毎朝、公演の前に新派の若い俳優さんたちと囲む波乃久里子さんの食卓。それだけでもう背中を押され、さらに蕎麦屋での月乃助・春猿さんとの食事で一歩踏み出し、行くなら明日、とチケットを取った。
花柳章太郎という役者が女方の名優であることは知っているが、その舞台は見たことがない(と思う。あるいはテレビで見たことがあるかも)。しかし写真を見ただけでその美しさ、華はもちろん、表情や佇まいから名優であったことが伝わってくる。その花柳章太郎が死の直前まで演じていた「大つごもり」と「寒菊寒牡丹」が没後50年の追悼として上演されている。三越劇場ロビーには笑顔の章太郎、みね、妻吉に扮した写真、章太郎の描いた絵が展示されていた。
「大つごもり」
有名な作品なのに、恥ずかしながら読んだことなかったかも。この芝居は一葉の原作を久保田万太郎が脚色したものである。
時は明治中ごろ、1231日の午後より灯ともしごろにかけて(「灯ともしごろ」という日本語が美しい)。場所は芝白金臺町の山村家勝手元。幕が開くと、下女みねが一生懸命井戸の水汲みをしている。何度も釣瓶を下げては上げ、桶に水をあけて重そうに風呂へ運ぶ。外出中の奥様から風呂を沸かすよう電話で言いつけられているのだ(この時代、電話があったというのはすごいと思ったら、明治中期には庶民にも電話が普及し始めていたらしい)。山村家の奥様あやは後添で口やかましく吝嗇であることから女中は半月と居つかない。その中でみねは半年も奉公が続いている。
久里子さんは前回「京舞」の愛子もそうであったが、健気に耐える娘役がとても合う。みねは貧しさのためにひたすら働き、辛い気持を内に秘めて明るく振舞う強さがいじらしい。勝手元で働いていた仕事師(田口守)はみねに感心しており、水を運ぶ途中滑って転び鼻緒を切ってしまったみねに鼻緒にする半紙をくれたり、水汲みを手伝ってくれたりする。田口さんの出入りの仕事師としての雰囲気、みねへの優しさにほっとするものが感じられる。
奥様もご主人も留守のところへ、長男の石之助(月乃助)が帰ってくる。石之助は先妻の子で、父親からも継母からも愛されていない。そのため家を飛び出して放蕩三昧、親にはますます迷惑で嫌われる存在である。
ところで伯父夫婦に育てられたみねは伯父の窮状を知り、奥様に2円の借金をお願いするが、吝嗇な奥様は断固として貸してくれない。みね一家にしてみれば2円は大金、しかし山村家にしてみればたったの2円であろう。それすら貸してもらえないみねの悲しさ悔しさ、それは徐々に怒りになっていくようであった。奥様が席を立った部屋には酔いつぶれて寝ている石之助とみねが2人きり。みねは懸け硯(片びらきの扉と手提げのついた外箱、その中に三段の抽斗がある。モノは知っていたが、懸け硯というのだとは初めて知った。覚えておこう)に入っていた30円の束から1円札2枚を引き抜き懐に入れる。
この時のみねはどうしても今日中に必要な2円を工面できない切羽詰まった状態と怒りで半分正気を失っていたのかもしれない。みねの怒りは奥様に対する怒りであると同時に貧乏に対する怒りであるように思えた。盗みがいけないことは当然であるが、主家の金に手をつけたみねの罪を私は責めることはできない。みね自身、しでかしたことの重大さはよく承知しており死も覚悟しているのだ。
やがて石之助が山村夫婦から50円の金を受け取り、妹に「忘れずに茶の間の懸け硯の中をご覧なさいまし」との継母への伝言を託し、勝手元から帰っていく。この言葉を聞いたみねの心中やいかに。早まってみねが自害しちゃうんじゃないかと息が詰まりそう。しかも奥様はみねに懸け硯を取ってこさせるのだ。
ところが奥様が懸け硯の中を見ると、30円がそっくり消え、石之助が30円をいただいたと書かれた紙切れ1枚がはらちと落ちたのだった。悔しがるあや。
八重子さんのあやは、あっけらかんとしたところがあって、陰湿な感じはしなかったものの、心底ケチなんだろうな、ケチだから使用人に厳しく当たるんだろうな(金払ってるんだからその分、いやそれ以上働けとか)と思った。
伝法な態度の石之助はいい加減な生活を送っているようにみえて、やはり怒っていたのだ、きっと。この芝居にはみねの、石之助の<怒り>が満ちているような気がした。そしてきれいな着物で羽根つきに興じる山村家のお嬢様2人に対し、粗末な着物でくるくる働きまわるみね、恐らく3人はそう変わらない年齢であろうに、生まれてくる家が違うだけでこうも人生は違ってくるのだという現実は、一葉自身の怒りでもあるように思った。
月乃助さんがかっこよく石之助の人間性を見せていた。ほっとして、去る石之助の後姿に手を合わせるみねと一緒に私もほっとして石之助に手を合わせる気持ちになっていた。

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